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近畿道前会の歴史

  近畿道前会の歴史

 一時、停滞した時期があったようで、平成八年に再開されました。その時の藤村知勝氏の経過説明文を次に挙げます。

    近畿道前会の近況と新体制問題の経過
          近畿道前会 総会準備世話人  五十二回   藤 村 知 勝

 平成六年年末、近畿道前会前会長岡碩平(第十九回)大先輩が逝去されたことにより、近畿道前会はその中心を失い、会運営は一層の停滞を見るに至った。心ある諸先輩の方々より『新会長を決めて近畿道前会の活性化を図れ!』との檄が発せられた。
 たまたま、殆ど唯一の近畿道前会活動である「道前ゴルフ会」の幹事を五十二回永井健一君が引き受けていたこともあって、輝ける諸先輩(三十一)佐竹利一、(三十五)小野拡、(四十四)佐名木真司、(四十五)藤田恒久等長期に亘り近畿道前会を支えて来て頂いた先輩方のご要請として「五十二回の諸君が中心となり、新会長、新役員の選任、会活性化方策等、近畿道前会修復案件の下ごしらえをしなさい」との指令が発せられた。
 年明け早々に、大震災に見舞われその善後策に振り回されたこと、九月に五二回の全国大会が大阪で開催されたこと、等が重なり新体制発足準備は遅々として進まず、五二回幹事一同焦燥の日々を無駄に数えたが、佐竹副会長に有志の招集を願い出て平成七年十月二十三日夙川グリーンタウン集会室に田宮豊治(一九回)大先輩以下十六名が集合した。
 『本会は何をする会ぞ!』から始まった熱意溢れる論議を経て、重要な基本方針が打ち出された。
 一、会長を大幅に若返らせよう!それも一挙に三十年程若返りを図ろう。
 二、若い人が中心になって新しい組織体制を作り、現・旧役員は必要なら顧問と言うことで応援     
   をすることにしたらよい。
 実にスッキリとした動ける方針であった。(世の政治家諸氏もこのように明快であって欲しいも 
 のである!)
 この方針を受けた形で、早速、『五十回の堀切民喜さんに会長をお願いしてはどうでしょう』と言う提案があり、藤田幹事長からも「それがベストの案だと思って来ました」と賛同の声が上がった。お忙しい方だから引き受けて頂けるかどうかの危倶はあったものの、反対なし、他候補なしで案は一つになった。
 問題は多忙な方を多忙と承知で会長に頂こうと言うのであるから、何もかもやっていただく訳には参らない。我々もそれなりの負担を分担する覚悟で会長を助け、会長と相談しながら会を動かし、運営せざるを得まい。即ち、「協力し合い、分担し合って仕事をしよう」と言う雰囲気作りと、実際に手を動かし汗を流す行動部隊の創設を是非やろうと言うことになった。
 活性化の第一の場面がこう言う場面ではないだろうか。
 次の難問は誰が新会長候補に直接お願いし説得するかで、これは、またまた、大変な仕事である。よほど計画を練って捲土重来を期して・・・・と悩んでいた所へ新会長候補と同期の明比篤美氏に会長就任説得工作で協力を得られることとなった。
 五十回は「おやらい会」等と言う名前までついた同期会を持つ、強力な結束力を誇る年度である。その終身幹事殿に一肌脱いで頂ける!!コイツァ秋から縁起がイイゼ!!と一同ホットしたのであった。
 十一月六日、大阪は江戸堀の住友金属工業の接待寮に五二の朝日昇、郷田秀清、高須賀丈俊、松本四郎、永井、藤村が集まり、明比氏を囲んで堀切氏との電話会談の模様など折衝状況を祈る様な気持ちで聴き入った。結果、堀切会長実現の見透しが一挙に明るくなったことが確認され、うまい酒の席になったと同時に、新会長支援体制を具体的に検討する段階に来たことを知った。
 副会長以下役員の人選の難しさは、お互いに知らないこともあって、当然のことであるが、幹事長だけは五〇、五一、五二辺りから出さねばなるまいとの認識で一致していた。更に、一部の人の独断で新会長及び新会長をサポートする体制作りが進められてしまうことのない様に、近畿道前会員大多数の参加と賛同の下で進められたと言う実感が多くの会員に残る様に、世話役皆が明確な理解と指導理念を持って進めようとの警告を発し、申し合わせを行った。
 「多数の参加と賛同を得ながらことを進める」ことが出来ると言うことは、近畿道前会活性化の実証以外の何物でもない。
 多数を動員し、積極的に参加させる力を持っているのは、何と言っても年度会である。
 年度会が夫々の年度の会員を掌握し、活発に活動出来る体制にあることが本会活性化の足場であり、出発点である。
 故に各年度に対し、二名以上の幹事を決め、本会(近畿道前会)に登録して貰うよう強く要望している。
 さて、だんだん贅沢になるが、会には活動拠点・根拠地・巣が欲しい。それも、手近で便利で人けがあってと要求は際限ない。
 古くから「シャトーテル大手前」を根拠地・事務局として利用しなさいとは聞いて来ていた。今回あらためて黒川建設シャトーグループ社主・黒川鴻氏(四十九回)より「シャトーテル大手前」を「事務局として使ってもらって結構だ」とのお申し出を頂き、お言葉にあまえて早速『巣』としての機能を発揮して貰う段取りとし、十二月十三日の拡大五二忘年会兼本問題中間報告会、三月二十九日総会準備世話人会、六月八日の総会等々、大小の会合を支える根拠地として利用させて頂くこととなっている。

 
 『平成八年三月二十九日』この日は新生近畿道前会にとってある種の感慨を伴った記念すべき日となった。
 五十歳以上六十五歳までの全ての年度が代表を派遣し、顔合わせをし、堀切新会長候補にも出席頂いて御挨拶を頂き、その中で「お引き受けしましょう」と言って頂いた日となった。裏方世話人がにこりと頷いた日でもある。
 会長・役員選出総会を六月八日と決め、総会準備世話人も指名し、体制は整った。
 六月八日には新体制の近畿道前会がいよいよ船出をする。

   近畿道前会と関西白菊会 

 大戦後の混乱が収まり始めた頃、故郷を離れて苦労をしている西条高女の卒業生達が「姉妹のように仲よくしたいものだ」とただお喋りをするために集まる会が出来、それが定着して関西白菊会となった。同窓会の原点そのものがここにある。今後もこの会を静かに続けて行きたいとのご希望である(西条高女のお集まりは残して行きたい)ので、その通り承知する。誰も何の異存もない。とは申せ、学校が一つになり、高女OGも正式に道前会会員である。従って、高女OGの近畿道前会活動への参加には何の制約もない。道前会は白菊会の存在と活動を、あたかも、体育文化クラブのOB・OG会と同様な一つのクラブであるかの様に認識し、幅広いグループ活動として近畿道前会の活動に吸収することとする。
 この様な理解の下で、関西白菊会代表を近畿道前会の役員に送り込むと言った発想ではなく、女性の方々も極く当たり前に本会にご参加頂き、当然役員も担当して頂く。また、高女時代以降の卒業生で白菊会の集まりに参加を希望される方があれば、関西白菊会は喜んで受け入れることでよい。
 世話人の本音は「少しでも多くの女性が各方面の幹事に就任し活発に活動して欲しいナァ・・・」と言うことなのですが・・。


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